私は、都内で建設会社を営んでいました。建設会社と言っても従業員はおらず、一人親方として知人から仕事を回してもらう小さな会社でした。
ある日、知人から紹介されたコンサルタント会社の顧問より仕事を請け負ったのですが、工期内に仕事を終わらせることができず、負債を抱えてしまい、顧問からこの負債分をコンサルタント会社に全額返済するか、会社の傘下に入るかの選択を迫られました。
一人親方のような小さい会社に負債を支払えるだけのお金はなく、結局はコンサルタント会社の傘下に入ることになりました。
当初、負債は顧問が「肩代わりしてやる」と話してくれていたのですが、傘下に入るも、負債が無くなることはありませんでした。
一方で顧問から「自分で仕事を取ってくるな」と私個人が仕事の契約をすることを禁止され、これまで私を信用してくれていた取引先も離れていってしまいました。
コンサルタント会社の傘下となり1ヶ月間、建設関係の仕事はまったく無く、食うに困っていると、顧問から「俺の仕事を手伝え」と言われ、この時初めて顧問が暴力団幹部であること、さらに「手伝い」とは顧問の運転手や組事務所の当番であることを知りました。
しかし、すでに顧問に自分の住所、電話番号や家族関係を知られており、「ここで断れば、自分だけでなく、妻や子供が危険な目に遭うかもしれない」と考えると恐ろしく、顧問の言うことに従い、仕方なく組員になるしかありませんでした。
組員となり、昼間は顧問と一緒に行動し、また自宅に戻っても組関係者から電話が架かってくるなど、正直、心が休まる暇がありませんでした。
そのうち、組をあげて振り込め詐欺に関わるようになり、その挙げ句逮捕されました。
警察署の留置所によちよち歩きの子の手を引き面会に来た妻に、「子供のために離婚しよう」と切り出したのでした。すると妻は、目に涙を浮かべて「離婚しても、立ち直ってくれると信じている。その時はまた籍を入れよう」と言ってくれ、この時私は家族のために脱会を決意したのです。
そして私は、刑務所で服役中に暴力団離脱プログラムを受け、出所後、覚悟を決めて、地元の警察署に「組織を抜けたい」と相談に行きました。
担当してくれた刑事さんは、私の話を親身になって聞いてくれ、組織から離脱するために必要な支援をしてもらった結果、晴れて私は暴力団を脱会することができました。
さらに、暴力団追放運動推進都民センターで、就職に向けた支援もしてもらい、そば屋の契約社員として人生の新たなスタートを切ることとなりました。
そば屋では朝から夜遅くまで洗い場や調理を担当し、慣れない仕事ながらも、店長や他の従業員から色々教わり無我夢中で働き、1ヶ月が過ぎたころ、働きが認められ、正社員になることができました。
今は、そば屋の従業員寮に住み、家族とは別々に暮らしていますが、いつの日か私が打ったそばを家族と一緒に食べることを夢見ながら、仕事に専念する日々を送っております。
暴力団組員になったことで、私は信頼してくれた仕事関係者だけでなく、家族をも失い、一時は後悔と懺悔の時間ばかり過ごしておりましたが、今は一人前の社会人として、また父親として戻れるよう、一歩一歩前を向き歩き続けています。
※警視庁担当者の聞き取りをもとに作成しています。